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2010年 05月 20日

アテネ(1)

5月5日欧州連合(EU)や国際通貨基金(IMF)の総額1100億ユーロ(約13兆5千億円)融資と
引き換えに政府が決めた緊急策に抗議する24時間のゼネストが行われた。空港の管制官も
24時間ストをしたのですべてのフライトがキャンセルされ、私たちもカイロ泊まりとなったわけだ。
首都アテネ中心部のデモでは、一部が激化し暴徒の投げた火炎瓶が銀行の入った建物に引火、炎上し3人が死亡、約20人が負傷した。デモには計約10万人が参加し、一部は激化し、建物や自動車などに放火したそうである。
5月6日私たちは昨日(5日)と同じ便でアテネに飛んだ。
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アテネ空港から市内に向かう
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アテネの中心部を車窓観光する
国会議事堂
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昨日は国会議事堂前でデモ隊と警察隊が衝突したそうだが、きょうは平穏であった。ただしその名残か、中心部には警官隊のバスが止まり、機関銃をもった多くの警官が警備し、路上には黒こげの車が放置されていた。
また裏通りではゴミの山が収集されず、残っていた。
凝った造りのアカデミー、アテネ大学、国立図書館とつづいている
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国立歴史博物館
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パルテノン神殿遠望
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この後アクロポリスを訪れる。
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# by seico5822 | 2010-05-20 22:49 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

 古代ギリシャの歴史(1)

アクロポリスの遺跡を巡るうち、アテネの歴史の古さにいまさらながら感動し、古代ギリシャの歴史をまとめてみた。
人類がギリシャの地に住み着いたのは約10万年前。テッサリアやマケドニアに新石器文化の住居跡がある。紀元前2000年頃、ギリシャ人の先祖とされるアカイア人やイオニア人がギリシャ本土に移住する。同じ頃ミノス王が支配するクレタ島を中心にクレタ(ミノア)文明が発展した(クノッソス宮殿)。
 紀元前15世紀にクレタ文明が衰退すると、アカイア人たちのミケーネ文明が台頭、紀元前13世紀頃まで発展は続く。ミケーネの王、アガメンノンを総大将としたギリシャ軍が、紀元前1260年頃トロイアを攻めたトロイア戦争は有名である。ギリシャ軍の勝利におわるが、その直後ギリシャは荒廃し、ギリシャ北西部からのドリア人の侵入によりミケーネ文明は滅び、紀元前900年頃まで暗黒時代がつづく。それから都市国家(ポリス)が各地で形成される(コリントス、アテネ、テーベ、アルゴス、スパルタなど)。この時代はアルカイック期と呼ばれ、この時代の文化にはアルカイック美術があり、建築としてはアテネのゼウス神殿、ディオニソス劇場がある。紀元前5世紀はじめまでギリシャの都市国家は、ポリス政治と文化が発展した。
 ところが東ではペルシャ帝国が強大になり、紀元前550年頃、小アジア東岸にあったギリシャ都市を征服。そのとき援軍を送ったアテネに向け、ペルシャ王は大軍を送った。これがペルシャ戦争の始まりである。前490年ペルシャの大軍がマラトン湾に上陸。アテネ軍たちはこれに勝利した(マラトンの戦い)。ペルシャ戦争では、圧倒的に有利なペルシャ軍に対し、各ポリスが一体となって戦い、ポリス連合軍の勝利となった(サラミスの海戦)。戦後しばらくポリス間に平和が訪れ、アテネ中心に文化、芸術方面に多くの優秀な人物が登場した。(ペリクレス将軍、アイスキュロス、ツキジデス、ヘロドトス等)対ペルシャ戦での勝利によってアテネは自他ともに認める最有力ポリスになった。これに匹敵する有力ポリスがスパルタである。ついに前431年、戦いの火蓋が切り落とされ、ギリシャ全土のポリスを巻き込み27年も続いた(ペロポネソス戦争)。前404年アテネの降伏によって終わりを告げた。長期に及んだ戦いは国全体を疲弊させた。
 この後北ギリシャのマケドニアのフィリポス2世が対ペルシャ線の総指揮官になろうとしたが、前336年暗殺され,その子アレクサンドロス(アレキサンダー3世が王位と父の遺志を継いだ。
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# by seico5822 | 2010-05-20 22:15 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

古代ギリシャの歴史(2)

 紀元前334年、アレキサンドロス(大王)の率いるギリシャ、マケドニア軍は東方遠征に出発。小アジア、シリア、エジプト、アフガニスタンを占領してペルシャ帝国を壊滅させた。10年に及ぶ東征でアレクサンドロス大王はインドのインダス川流域までの全オリエントを支配下においた。占領した地にギリシャ都市を建設したため、そうした地にはギリシャ文化が広がった。
しかし紀元前322年、大王は熱病にかかり33歳の若さで急逝する。彼の死後、アレキサンドロスの広大な領土は3人の家臣のよって分割統治され、プトレマイオス王朝エジプト、アケメネス王朝ペルシャ、セレオコス王朝シリアの3つの王国が生まれた。アレキサンドロス大王の東方遠征に始まってギリシャ文化が遠方まで広がったこの時代をヘレニズム時代という。
しかしギリシャ本土では争いが絶えなかった。国内での対立抗争は、強国ローマに侵攻の好機を与え、ギリシャ各地は次々にローマに占領され、最後まで抗戦したマケドニアもキノスファライの戦い(前197年)でローマに敗れた、一時勢力を盛り返すもピュドラの戦い(前198年)で破れ、マケドニアは滅亡した。前146年コリントスもまたローマによって破壊され、前86年スラに率いられたローマ軍がアテネに侵攻、略奪、破壊する。紀元前27年にギリシャはローマの属州アカイアとなる。
 
 ローマの支配下で属州となったギリシャは政治の表舞台には出ることはなくなったが、文化面ではアテネが中心となった。また、1世紀後半から2世紀の初めにかけ、キリスト教がギリシャに伝えられ、急速に全土にひろまった。キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は帝国の首都をコンスタンティノープル(現イスタンブール)に移し、新都の建設に着工、330年新都コンスタンティノープルの完成を祝う。
新しい都にはすでに多くのギリシャ人が住んでいた、また帝国内で力を握りつつあった教会がギリシャ語を公用語としていたことから、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は急速にギリシャ化していった。
ここにヘレニズム時代は終わり、新しい時代・ローマ・ビザンティン時代が始まった。
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# by seico5822 | 2010-05-20 21:14 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

アテネ(2) アクロポリス

  アクロポリスに入って最初にヘロディス・アティコス音楽堂を訪れた。

ヘロディス・アティコス音楽堂
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  マラトンの富裕なヘロディス・アティコスにより161年に建設された。もとは建物全体が屋根で覆
  われ、この建物とディオニソス劇場とは長い柱廊によって結ばれていた。
  ディオニソス劇場は酒と演劇の神ディオニソスの聖域に造られたギリシャ最古の劇場。
                                                 (前6世紀)
 
現地ガイドがアクロポリスの復元図を見せて説明してくれた。
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  左下の半円形…ヘロディス・アティコス音楽堂
  右上の半円形…ディオニソス劇場

ヘロディス・アティコス音楽堂よりフィロパポスの丘を眺望
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  フィロパポスの丘の頂上には、2世紀の初め頃のローマの執政官でアテネのために尽くした
  フィロパポスのために、当時のアテネ市民が彼を記念して建てた墓標がある。
ヘロディス・アティコス音楽堂よりヘファイトス神殿を眺望
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  ヘファイトス神殿は古代アゴラ(市場)の西に位置するコロノスの小丘の上に建つ大理石の神殿。
  紀元前5世紀中頃に建設されたドーリス様式の周柱式神殿でパルテノン神殿に類似している。
  ヘファイトスは鍛治と金属加工の守護神で、この神殿の建っているコロノスの丘の斜面で溶炉や
  工房の跡が見つかっている。

ヘロディス・アティコス音楽堂よりフィロパポスの丘やヘファイトス神殿を眺望した後、ブーレの門を通り、
参道を上がっていくと、左側に立っているのが、アグリッパの台座で、右手の小さな神殿がアテナ・ニケ
神殿であるが、残念ながら修復中であった。参道を上りきったところにある建物がプロピレアである。
プロピレアとピナコテーク    左端はアグリッパの台座
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  プロピレアは、神域に入るための通路が設けられている中央の建物とその東西の両翼から構成
  されている。中央の建物には三角形の波風が冠されていた。正面には6本のドーリス様式の円柱
  が立っている。
  建物の内部の円柱はイオニア様式である。正面のドーリス様式の円柱と内部のイオニア様式の
  円柱の組み合わせは、このプロピレアの特徴で、建築上の傑作と言われている。
  プロピレアの北側の翼はピナコテーク(絵画展示室)と呼ばれ、当時の有名な画家の絵が飾られて
  いたそうである。
プロピレア
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プロピレアと修復中のアテナ・ニケ神殿
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  アテナ・ニケ神殿は紀元前421年に建設が始められ、設計者はパルテノン神殿建設にも寄与した
  建設家カリクラティス。イオニア式の柱を持ち、アッティカ建築の優美さがよくあらわれている。
  戦いで勝利を願うアテネ市民が戦いの女神がどこへもいけないように、翼を切り落としてこの神殿に
  祀ったという。  

パルテノン神殿
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  民主政治を築いた名将ペリクレスの命によって紀元前449年着工され、完成は前432年。 
  設計者はアテナ・ニケ神殿の設計者カリクラティスの同僚のイクティノスで、高名な彫刻家
  フェイディアスが総指揮を取る。
  パルテノン神殿はドーリス様式の周柱型の神殿で、溝の刻まれた重厚な円柱が正面(東側)と
  後面に各8本、各側面に17本立っている。柱の中央にはふくらみがあり、上部は細い。柱は少し
  内側に傾いて立っている。床も中央部分が両端より少し盛り上がっている。これは美しさと同時に
  屋根の重さを支えたり、床の水はけをよくする目的があるといわれている。
  建てられた当時、神殿は全体が彫刻像や浮き彫りなどで飾られていた。
  そのレリーフの一部(模作?)
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アクロポリスの北側(プロペリアから入るとパルテノン神殿の左側)のエレクティオン
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  乙女像の柱で知られる繊細優美なエレクティオンは紀元前408年に完成。北側にイオニア式
  円柱、南側にはカリアティスと呼ばれる6人の乙女像を柱とした柱廊が張り出している。
  伝説上の王やゼウスやアテナ、ポセイドンなど複数の祭神を合祀した。
  この6人の乙女像は複製で、オリジナルは新アクロポリス博物館や大英博物館に展示されている。
アクロポリスから北東に広がるアテネ市街とリカヴィトスの丘
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アクロポリスから東南のゼウス神殿を望む   左下はハドリアノス帝の凱旋門
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  ゼウス神殿はハドリアヌス門のすぐ南にある。ゼウス神の聖域にある神殿跡。かっての神殿は
  104本ものコリント式の柱が並んでいたという。現在は15本残存している。
  第14代皇帝・ハドリアヌス皇帝(紀元76年~136年)は124年の秋から125年春にかけて
  アテネに滞在。ハドリアヌス皇帝は128年、131年にもアテネを訪れていて、ゼウス神殿が
  建設された。
  ハドリアヌス帝の凱旋門も2世紀に建設された。

この後アクロポリスから第1回近代オリンピックが開かれたパナティナイコ・スタジアムに向かった。
パナティナイコ・スタジアム
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  1896年この競技場で第1回近代オリンピックが開かれた。この競技場はオリンピックが開かれる
  前年に、古代の競技場に近い形で復元された。座席は大理石でできており、約5万人収容できる。
  トラックは現代のものとは異なり、馬蹄型をしているので、アテネオリンピックでは使用されなかっ
  た。

これでこの日の見学は終わり、ホテルに入る。まだ昨日の騒動の余波があるので、中心街には行か
ないようにということで、ホテル周辺の住宅街を散策したが、静かで穏やかな町の光景だった。 
  
   
  
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# by seico5822 | 2010-05-20 21:10 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

5月7日 ギリシャ(アテネからカランバカへ)

朝7時30分アテネのホテルを出発、まず世界遺産に登録されているオシオス・ルカス修道院に向かう。
オシオス・ルカス修道院
  パルナッソスという山を望むところにある修道院。ビザンティン時代のフレスコ画の保存状態がよく、
  中期ビザンティン時代を代表する建築物のひとつで世界遺産に登録されている。
  10世紀にルカスという人がこの地で修道生活を送り、人々の信仰を集めた。オシオスは福者という
  意味で、福者ルカスの遺徳をしのんで建てられた修道院。
修道院全景
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修道院食堂
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  手前の四角い建物は以前修道士の食堂として使われていた。その向こうのドームのある建物が
  修道院聖堂。
聖堂の入り口
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  入り口の上にはキリストのモザイクがある。壁や天井も金地のモザイクで飾られている。
主聖堂
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  この祭壇の奥は聖域で一般信者は入れない。このイコンを顕示する台で祈る。
  聖堂には、壁や天井に金地の背景にキリストや多くの聖人像が描かれている。
修道士の暮らす部屋
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デルフィの近くで昼食をとったレストラン
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  大変見晴らしがよかった。

デルフィ
 アテネから西北へ178km、パルナッソス山の中腹のデルフィは古代ギリシャの宗教の中心地と
 して栄えた。ミケーネ時代(紀元前1600年~1100年)から神を祀る場所となっていた。その頃は
 大地の女神ガイアの聖所だったが、その後ゼウスの息子アポロンが巫女ピュティアの体を借りて
 神託を授け、前8世紀から前4世紀にかけて、多くの巡礼者が訪れた。
 一般の人だけでなく、ギリシャ都市や外国の要人までが神託伺いに訪れ、歴史上重要な決定に
 影響を及ぼすようになった。アポロン神殿の参道の両側には、多くの都市国家が神託のお礼として
 献上した宝庫や記念碑が立ち並んでいた。この神託はビザンティン時代の4世紀後半にデルフィが
 閉鎖されるまで続いた。
世界のへそ(参道脇に複製が置かれている)
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  古代の人々は、デルフィが世界の中心に位置していると考えて、「大地のへそ(オンファロス)」を
  アポロン神殿のアポロン像のおかれている前室の地下においていた。現在はデルフィ博物館に
  展示している。
アテネ人の宝庫
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  神託のお礼として献上した宝庫や記念碑のなかで、マラトンの戦いの戦勝記念に奉納された
  アテネ人の宝庫が再建されている。
アポロン神殿跡
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  アポロ神殿が最初に建てられたのは前7世紀、火災や地震で崩壊。現存しているのは前370年頃
  の神殿跡である。神殿は長さ60m、幅23mで38本のドーリア式列柱が立ち、前室、内室、後室に
  分かれていた。この前室の地下に、「大地のへそ(オンファロス)」とされた石があって、そこで神託
  が行われていた。
古代劇場
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  前4世紀に建てられ、ローマ時代に最終的な形となる。観覧席は35段あり、約5000人収容
  できる。ピュテイア祭などスポーツの祭典はさらに上にあるスタディアムが使用された。
古代劇場から見るアポロ神殿跡
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古代劇場から見るアテナープリナイア神殿跡
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  アテナープロナイアに捧げられた神域。前6世紀に建てられたドーリア様式の神殿跡。
  円形建築物トロス(前4世紀)が目を引く。3本の円柱が修復されている。

デルフィを見学した後、カランバカのホテルに入る。
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# by seico5822 | 2010-05-20 21:01 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

5月8日 ギリシャ(カランバカ~テッサロニキ)

 今朝は出発がゆっくりしているので、朝食後ホテルの中を散策する。
ホテルのプール
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 中庭のバラがきれいだった。
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 9時出発。7kmほど離れた世界遺産メテオラに向かう。
メテオラ
 平原に、低いもので20~30m、高いものは400mもある岩山が突然現れる。いつ、どのようにして
 この奇岩群が誕生したのかはっきりしないという。最初この地に人が住み始めたのは9世紀ころ。
 14世紀、戦乱を逃れ、下界と離れ、神との交信を求めて、大勢の修行者がメテオラにやってきた。
 1356年アトス山から来た聖アタナシオスがメガロ・メテオロン修道院を建設したのが最初で、代々の
 国王の保護を受け、ギリシャ正教の聖地として発展した。15~16世紀にかけては修道院は24にも
 達したが、その後修道士の数が減少、現在は、ルサヌー修道院(尼僧院)、 アギア・トリアダ修道
 院、アギオス・ステファノス修道院(尼僧院)、メガロ・メテオロン修道院、アギオス・ニコラオス修道
 院、ヴァルラーム修道院の6修道院しか人は住んでいない。 
 私たちはこの中のアギオス・ステファノス修道院(尼僧院)、メガロ・メテオロン修道院に入場した。
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  切り立った岩山に荘厳な修道院が点在
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  左:- メガロ・メテオロン修道院    右:-ヴァルラーム修道院
アギオス・ステファノス修道院(尼僧院)
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  私たちが入場した修道院で、設備がよく資料館内の展示されたイコンや写本、刺繍など素晴らしい。
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  中庭の花壇がいかにも尼僧院らしく優美に整えられていた。
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  この修道院からのカランバカの村の展望は素晴らしかった。

メガロ・メテオロン修道院 ---入場
  メテオラ最大の修道院で、高さ613mの岩の上にある。
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  長い急な階段をのぼって修道院に入る。この階段が造られる前は、岩登りのようにして登り、
  病人や荷物などはこの網に入れられて登下山したという。 修行の厳しさを実感する。
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中庭
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近くのヴァルラーム修道院を見下ろす
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昼食をとったレストラン
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レストラン前の奇岩
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バスはテッサロニキに向かう。
テッサロニキはアテネに次ぐギリシャ第2の都市でビザンティンの影響が強く、ゆっくり観光したい
ところだが、寝台特急フィリア・ドストリック(一等寝台)でイスタンブールに向かう。
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 トルコとギリシャの列車が交互に運行しているが、これはトルコの列車。
 19時30分乗車。
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私の個室。このソファーが寝台に早変わりする。
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# by seico5822 | 2010-05-20 20:55 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

5月9日 イスタンブール(ブルーモスク、地下鉄など)

昨夜8時過ぎ、列車はギリシャのテッサロニキを出発、村や畑、山々を通り過ぎているようであるが
暗くて外はよく見えない。ベッドに横になるが眠れない。トイレに行き、鍵をかけると鍵が硬くて開か
ない。緊急ボタンを探したが、見つからない。渾身の力を込めてまわすとやっと開いた。日本では緊急
ボタンがあると思うのだが…12時頃ギリシャ出国のため、ギリシャ側の車掌がパスポートを集めに
来た。2、30分後手続きを終えてパスポートを返しに来た。それから2,30分後今度はトルコ側の
車掌が入国のため、パスポートを集めに来て、2,30分後に返しに来た。夜中に何度も起こされ
ほとんど眠れない。
長い夜が明け、東の空が白み始めた。横になっているのに飽きて廊下に出た。ドアは閉めたが、
鍵は掛けていないのに、ドアが開かなくなり個室に入れなくなった。廊下に出ている人がいろいろ
やってくださったが、どうしても開かない。車掌をさがしたが見つからないので、添乗員に連絡、
添乗員が車掌をさがしてきてくださった。
鍵に悩まされた寝台特急列車も、やっと8時過ぎイスタンブールのスィルケジ駅に到着。この列車は
いつも相当遅れるということだが、今日はどうだったのだろう。すべて添乗員さんまかせで、ツアー
旅行は気が楽であるが、添乗員さんは度重なるハプニングにさぞ大変なことであったと思う。
スィルケジ駅
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私たちはこの建物から出入りしたので、これがスィルケジ駅かと思ったが、スィルケジ駅の正面はヨー
ロッパ側の玄関口、オリエント急行の終着駅に相応しい堂々としたレンガ造りであった。

スィルケジ駅からバスに乗車、旧市街の歴史地区の中心スルタンアフメット地区に向かう。
スルタンアフメット地区には、スルタンアフメット・ジャーミィ、アヤソフィア、トプカプ宮殿など見どころが
多いが、時間の関係で今日はスルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)のみで、トプカプ宮殿は
5月15日に見学する予定である。
スルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)に入場する前に、その西のローマの大競技場跡に行く。
ローマの大競技場跡…現在は「アトゥ・メイダヌ(馬の広場)」と呼ばれている
  かってはここに縦500m、横117mのU字形競技場があり、戦車競技が行われていた。
  この広場には3本の柱が建っている。一番南にあるのが
テオドシウス1世(治世379~395年)のオベリスク
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  この広場の一番南側にある高さ25.6mの石柱。
  エジプトのトトメス3世(紀元前15世紀頃)がルクソールにあるカルナック神殿に建立したものを
  ローマ皇帝が運んできたものであり、柱にはヒエログリフなどが刻まれている。
  また台座には、競技を見る皇帝の姿などのレリーフが施されている。
蛇の柱
  
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  この広場の真ん中にある途中から折れた高さ8mの青銅製。
  コンスタンティヌス1世の時代にギリシャのデルフィのアポロン神殿に建てられていたのを持って
  きたもので、もとは紀元前5世紀にギリシャ都市国家がペルシャ戦争の戦勝記念に建てたもの。
    コンスタンティヌス1世(治世306~337年)は、324年帝国東方と帝国西方に分かれていた
    ローマ帝国を統一、首都をビザンティムに移し、新都の建設に着工。330年完成式を挙行、
    名前をコンスタンチノープルと改める(現在のイスタンブール)。
切石積みのオベリスク
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  コンスタンティヌス7世(治世912~959年)よって作られたもの。
  
  この広場は、このようにビザンツ帝国時代の歴史を刻んでいる。
  この広場に面した出入り口から、スルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)に入場する。
スルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)
  スルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)のローマの大競技場跡に面した出入り口
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  中庭の花壇
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  中庭よりドームを望む
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  ドームの中にに入る。ドームには260にものぼる小窓があり、ステンドグラスが美しい。内壁を飾る
  2万枚以上の彩色タイルは、さまざまな文様を組み合わせているが、青を主体にしているために、
  ブルーモスクの名で親しまれている。
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  スルタンアフメット1世の命で、1616年に建造されたスルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)
  は、6本のミナーレと高さ43m、直径27.5mの大ドーム、4つの副ドーム、30の小ドームをもって
  いる。6本のミナーレを持つイスラーム寺院は珍しい。スルタンから「黄金(アルトゥン)のミラーレを
  作れ」と命じられたのを、「6本(アルトゥ)」と勘違いをして、6本のミナーレとなったとの言い伝えが
  あるが、重厚な堂々としたジャーミィである。
アヤ・ソフィア
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  ローマ帝国時代にキリスト教の聖堂として建立され、ビザンツ建築の最高傑作といわれるが、
  1453年、オスマン帝国が征服したのちはイスラム教のモスクになり、1700年代には残されて
  いたモザイクも漆喰で塗りつぶされた。トルコ共和国時代に入ってからからの大修理によって、昔の
  姿をほぼ取り戻し、現在は博物館になり、ビザンチン帝国の栄華をし偲ばせている。
スルタンアフメット地区からバスに乗り、金角湾に架かるガラタ橋を渡り、新市街の地下鉄(チュネル)
に向かう。
世界最短の地下鉄(チュネル)
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  1875年に造られた、ヨーロッパでも古い地下鉄。
  ガラタ橋近くのカラキョイから路面電車の終点チュネルまで3分の世界最短の地下鉄である。
路面電車の終点チュネルからイスティクラール通り散策、途中アンティークな路面電車に出会う。
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ハプニングがあり、予定よりかなり遅れたが、昼食をとったあと、バスで今日の宿泊地、トルコの
首都アンカラにむかう。およそ450km、途中激しい雷雨に見舞われたが、無事アンカラに到着。
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# by seico5822 | 2010-05-20 20:50 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

5月10日 アンカラからカッパドキアへ

アンカラはアナトリア高原の中央部に位置するトルコ共和国の首都で、人口320万。
1923年ムスタファ・ケマル・アタチュク初代大統領が共和国誕生と同時にこの地を首都に定めた。
現在は政治、交通、文化の中心でトルコ第二の人口を要する大都会であるが、アンカラの歴史は
古く、新石器時代から人が住んでいた。
アンカラにあるアナトリア文明博物館は、展示物はすべてアナトリアからの出土品でアナトリア初期
の遺物やヒッタイト王国の収蔵物では世界的に知られているとのことで、見学したかったのだが、
ツアーのため、残念ながらアンカラは車窓見学だけだった。
8時30分ホテルの前からバス乗車、まもなくアンカラ城が姿をあらわす。
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  アンカラ城は紀元前3世紀にガラティアン帝が建設し、コンスタンチヌス帝によって改修された
  二重の城砦。市内に残る最も古い建造物のひとつ。
アンカラ市外南東の丘の上に建つアタチュルク廟
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  トルコ共和国創立者ムスタファ・ケマル・アタチュク初代大統領を葬るため1944年~53年に造ら
  れた霊廟。
アンカラから310kmほど離れたカッパドキアに向かう。2時間ほど走ったころ大きな湖に沿って走る。
トルコで2番目に大きな湖トゥズ湖である。
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  塩分が30%を超えるため、夏の間は湖の水の多くが干上がり、一面塩の層になるが、冬は
  塩は水に溶けるそうだ。5月なので 沿岸近くは塩の層ができている。
  トゥズ湖の塩採取場でトルコで消費される塩の約70%を生産しているという。近くの売店で
  ここの塩を販売していた。
1時前カッパドキアに到着。アンカラから約310km。カイマルク近くのレストランで昼食。
とてもハンサムなユーモアのあるウェイターがいた。トルコではネコが大変多くとてもかわいかった。
ここでもネコの鳴き声がするので食事をしている窓の下を見るとちょこんとネコが座り、私たちを
見上げていた。
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世界遺産「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石遺跡群」
カッパドキアとはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた地を
いう。太古の昔、火山の噴火によって堆積した溶岩や火山灰が長い年月の間に侵食されてできた
奇岩群、そして4世紀前後からはキリスト教の修道士が岩に洞窟を掘って住みはじめ密やかに
キリスト教文化を育んできた地で、「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石遺跡群」として、1885年
ユネスコの世界遺産に複合遺跡として登録された。

カイマルクの地下都市の外観
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  蜂の巣のように地下に延びる地下都市、地下8階の深さで約2万人の人が暮らしていたという。
  アラブ人から逃れたキリスト教徒が身を隠したといわれる。まるで迷路のようだが、礼拝堂、
  教室、食料庫、厨房、井戸などがあり、丸い大きな石のドアもあって敵の侵入を防いだ。
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まわりには、露店も多く、青空の下でコーヒを飲み一休みしている人たちがいた。
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近くの絨毯のお店に寄り、絨毯の作成の実演をみる。
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絨毯の上を素足で歩いてみると、その絨毯の品質がよくわかるとの説明に納得。
その後、当然ながら絨毯の売り込みが始まり、商談が成立すると、ファンファーレがなる。
3人姉妹と呼ばれるキノコのような岩
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ウツヒサルの小さい村
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この岩の表面には数多くの穴が開いている。これは鳩の家と言われる鳩の巣で、このあたりの
住民は昔から鳩の糞を集めてブドウ畑の肥料にしていたそうだ。
伝統産業である焼き物をぶら下げた樹
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また幸運を呼ぶという目玉のなる樹もあった
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ホワイトバレー
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ウチヒサルの「尖った砦」という意味の一枚岩の城砦
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  この城砦に登っている人たち
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ローズバレー
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  夕日を受けて桃色の峡谷が紫色に変化する
6時40分岩窟ホテルに到着
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# by seico5822 | 2010-05-20 20:40 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

5月11日 カッパドキアからコンヤへ

今日は午前中は自由行動だが、9時30分からのオプショナルツアー、ギョレメ野外博物館と
ゼルベ野外博物館観光に参加することにした。出発まで時間があるので、昨夜は疲れてあまり
見ることができなかった室内の写真を撮り、ホテル周辺の散策をした。
私の部屋
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  1階のベッドの横から中二階のリビング兼円形ベッドとガラス窓越しに半地下の浴室が見える
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  壁にはめ込まれた洋服ダンスと冷蔵庫
ホテルの外観
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  ツアーでご一緒の方が乗っている気球かもしれない。
  のんびりとホテル周辺を散策する
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9時半ロビー集合。ギョレメ野外博物館に向かう。
ギョレメ野外博物館…世界遺産
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  古代ローマ時代、このあたりにキリスト教徒が岩を掘ってて住み始めた。30以上の岩窟
  教会があり、11世紀頃に建てられた教会は保存状態がよく、内部のフレスコ画は素朴な
  ものから聖書のエピソードが細かく描かれたものまであり、見事である。
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ユランル・キルセ…聖ジョージらによるヘビ退治の壁画
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人気のある教会は行列ができていて、時間内に見学は無理なので割愛。
ギョレメ・パロラマ
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  白い滑らかな岩肌が広がる。

セルベ野外博物館…奇観のキノコ岩が連なり、ギョレメ・パロラマと対照的である。
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  セルベ峡谷には聖堂や住居が無数にあり、1950年代まで人がすんでいたが、岩が
  崩壊の危険があるので現在は移住。

洞窟レストランで昼食
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午後は全員でパシャバー、デヴレントを見学
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その後トルコ石の店に立ち寄り、今日の宿泊地コンヤに向かう。
走行距離約230km。
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# by seico5822 | 2010-05-20 20:30 | エジプト・ギリシャ・トルコ
2010年 05月 20日

5月12日 コンヤからパムッカレへ

コンヤは11~13世紀セルジューク・トルコの首都が置かれていた町で、最盛期には政治・文化・芸術
の中心として栄えた。特にカイクバード1世時代に芸術家や建築家、イスラーム関係の科学者たちを
集めて学校が開かれ、コンヤ文化が花開いた。現在も市内に残っている神学校や遺跡のほとんどが
その時代のものである。旋舞教団として有名なイスラーム神秘主義の一派、メヴレヴィー教団の創始
者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーもそうした学者の一人である。
メヴラーナ博物館
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  メヴレヴィー教団の創始者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーの霊廟で、現在は博物館と
  して公開されている。緑色のタイルで覆われた円錐形の屋根をもつ霊廟は13世紀末に造られた。
  セルジューク期の芸術品、メヴラーナをはじめとした聖者たちの棺などが展示され館内の装飾も
  美しい。
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  くるくる回るメヴラーナの旋舞「セマー」のキーホルダー
インジェ・ミナーレ博物館
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  インジェ・ミナーレとは"細い尖塔”の意味で、13世紀中頃にイスラム教の神学校として
  建てられ、現在はイスラーム関係の彫刻の博物館になっている。ミナーレは現在の3倍の
  高さがあった。1901年の落雷で上部が壊れてしまったが、正面入り口の浮き彫りが繊細で
  ある。またミナーレの壁面装飾も美しく、セルジューク建築の代表作。
コンヤを後にし約410km離れたパムッカレに向かう。
 
なだらかな丘の向こうに雪をいただいたような大地が見えた。トルコ語で「綿の城」という意味の
パムカッレである。雪かとまがうようだったが、そういえば綿のようでもある。人でごった返す南門
チケット売り場を通り過ぎるとまず目にうつったのは、荒野のなかの廃墟、ヒエラポリスだ。
目を左に移すと白い綿の城、その対比がなんともいえず印象的。『ヒエロポリスーパムッカレ』は
1988年複合世界遺産に登録されている。
ヒエラポリス
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  紀元前190年頃にペルガモン王エウメネス2世によって建造された古代都市の遺跡。
南ビザンツ門
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石灰棚
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  真っ白な雪のつもった段々畑のようで、絵葉書で見るような温泉水のたまった池はみられない。
  ヒエロポリス博物館の横を通りすぎると、多くの人が裸足で歩いている大きな足湯に来た、立ち
  入ることが許されている石灰棚である。
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遺跡の中を歩いてパムッカレ温泉に向かう。
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パムッカレ温泉
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  ローマ時代の遺跡が転がる温泉プールで泳ぐ人たち
プールの北のアポロ神殿跡と円形劇場
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  ハドリアヌス帝により造られたというローマ劇場。
 
北ビザンツ門の北西にアゴラ、ドミティアス門、北大浴場ネクロポリスなど、見たい遺跡が
あるようだが、時間の関係で、南ビザンツ門に引き返し、今夜のホテルに向かう。
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# by seico5822 | 2010-05-20 20:20 | エジプト・ギリシャ・トルコ