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2012年 07月 13日

関ヶ原

大垣を訪れた8日後の4月7日にJR関ヶ原駅に降り立ちました。いままで何度も車窓から関ヶ原を眺め、こんな静かな田園地帯で天下分け目の決戦を繰り広げたのかと瞠目したものでしたが、はじめて関ヶ原に降り立ったときもその気持ちがきえませんでした。
岐阜、大垣を訪れたあと、関ヶ原合戦にいたる経由はある程度わかりましたが、どんな布陣でどんな経由で、東軍の勝利にいたったのかを理解するため、まず最初に関ヶ原歴史民族資料館を訪れました。
関ヶ原歴史民族資料館
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関ヶ原合戦屏風や関ヶ原合戦にかかわる武具など展示してあります。また合戦時の東西両軍の陣形や合戦の流れを臨場感あふれる解説付き大型ジオラマを、古戦場めぐりの前に見て予備知識を得ることができました。
関ヶ原合戦布陣図(布陣したときの陣形) クリックで大きくなります
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関ヶ原合戦陣形図(午前8時前の陣形) クリックで大きくなります
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関ヶ原歴史民族資料館を出て、まず、戦いの様子を一望できる笹尾山に陣をおいた西軍・石田三成の陣跡に行き、私も関ヶ原を一望しました。
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合戦時、竹矢来の前に島左近、中間に蒲生郷舎を配置し、三成は山頂で指揮をとっていました。
島左近の陣跡と矢来
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1600年9月15日は前夜から深い霧で見通しがきかない。緊張感の漂う中、無言のにらみ合いが続く。
霧が少し晴れた午前8時頃、井伊直政・松平忠吉隊が宇喜田隊に発砲して決戦の火蓋が切られました。
関ヶ原古戦場 開戦地
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会戦当初は西軍のほうが有利でしたが、三成に反発する武将たちを巧みに操り、情報戦で西軍を撹乱した
家康は、桃配山から陣を前進させ、正午ころ松尾山の小早川秀秋陣に発砲させました。ここで小早川隊が西軍を裏切り寝返ったことにより東軍有利となり、最後は三成陣営の近くが、決戦地になりました。
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島津良弘陣跡
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島津豊久が、叔父に当たる義弘を救うため、身代わりになって討ち死にしました。
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# by seico5822 | 2012-07-13 23:26 | お出かけ
2012年 07月 10日

大垣

関ヶ原の戦いのとき、西軍石田三成が入城し西軍の本拠地にしましたが、長良川、揖斐川が流れる水の都でもあります。
また、松尾芭蕉ゆかりの奥の細道むすびの地でもあります。大垣城西総門跡から南に水門川を辿っていくと水門川の東岸に「奥の細道むすびの地」の碑がたっています。
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  左 芭蕉    右 谷木因
谷木因俳句道標
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 「南いせくわなへ十りさいがうみち」
後ろの石碑(蛤塚)
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  前の碑    蛤の ふたみに別行く秋そ      芭蕉
  後の碑    惜しむひげ剃りたり窓に夏木立   木因
芭蕉は、元禄2年(1689)の秋、約5ヶ月の「奥の細道」の旅をここ大垣でおえました。この大垣に居住する如行宅に親しい人たちが集まり、日夜見舞ってくれて、まるで生き返った人に再会するように、喜んだり、労わったりしてくれたと書いています。旅の疲れはまだ残っているものの、伊勢神宮遷宮に参ろうと
   蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
と詠んで、谷木因らとここ水門川の船町港から舟で桑名へくだりました。
住吉燈台と船町港跡
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 「ミニ奥の細道 芭蕉句碑めぐり」
「奥の細道」全工程2400kmを、愛宕神社(錦町)から、水門川沿いに奥の細道むすびの地(船町)までの
2.2kmにみたてて、「奥の細道」の旅で芭蕉が詠んだ句から代表的な20句と、「矢立初の句碑」(行春や
鳥啼魚の目は泪)と「蛤塚」をあわせた22句で、芭蕉の足跡をたどるようになっていますが、残念ながら時間がなくて割愛しました。

水門川をたらい舟に乗って楽しむ人もあり、情緒あふれる町です。
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私も水門川を北に少し辿ってみました。
大垣城竹橋口門跡
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大垣城清水口門跡
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興文橋で右折して水門川と別れ、大垣市郷土館をおとずれました。
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 大垣市指定重要文化財旧戸田鋭之助邸正門及び船板塀
中から門を眺める
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戸田公入城350年の記念事業として建設された施設で、歴代大垣藩主戸田公の顕彰を中心に、ふるさとの生い立ちや現状を理解するための施設。戸田左門氏鉄は元和2年(1616)、摂津国尼崎に移封され、治水事業や大阪城の修造に大功をたて、寛永12年(1635)に美濃国大垣に移封され10万石を封與されました。
入部後、新田開発、治山治水事業、文教の振興などに尽くし、藩政の基礎を築きました。その後、戸田氏大垣藩は、西美濃に君臨して明治の版籍奉還まで235年太平の世が続きました。
大垣市郷土館を出て、西から大垣城に入りました。
西から見た大垣城
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     騎馬像は戸田氏鉄公
大垣城は天文4年(1535)築城され水門川の流れを外堀に利用した小さな城でしたが、、その後城郭の増築がおこなわれ、天守閣は慶長元年(1596)に造営され、元和6年(1620)改築されたといいます。この天守閣は四重四階建て総塗りごめ様式で、たいへん優美な城として名高く、昭和11年には、国宝に指定されましたが、昭和20年7月29日戦災で焼失し、昭和34年、現在の天守閣が完成しました。
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# by seico5822 | 2012-07-10 12:33 | お出かけ
2012年 07月 08日

大垣

岐阜城を訪れた6日後の3月30日、西軍石田三成が本拠地とした大垣城に行きました。
西軍石田三成は、慶長5年(1600)8月10日、大垣城に入城し西軍の本拠地としました。 一方東軍徳川家康は9月1日、江戸城出発し、13日に東軍の手に落ちていた岐阜城に着き、14日の未明に出発し、正午に岡山の本陣にはいりました。家康到着の知らせが大垣城に入ると西軍の士卒が動揺し始めたので、島左近西軍の威勢を示すべく蒲生卿舎とともに杭瀬川へ向かいました。彼らの挑発にのった東軍の武将野一色頼母以下30余人雑兵百十が討たれました。西軍唯一の勝ち戦がこの杭瀬川の戦いでした。東軍徳川方の作戦におびき出され、大垣城には福原長尭ら兵7500人ほどを残して、慶長5年9月14日の夜、西軍は雨とぬかるみと暗闇の中、決戦場となった「関ヶ原」へ移動したのです。
大垣市の地図(クリックすると大きくなります)
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JR大垣駅
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大垣城東門(柳口門)から移築されました。)
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東から見た大垣城
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大垣城由来(クリックすると大きくなります。)
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大垣城からの展望(クリックすると大きくなります)
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大垣城柳口門蹟(クリックすると大きくなります)
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大垣城西総門(クリックすると大きくなります)
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船町道標(クリックすると大きくなります)
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# by seico5822 | 2012-07-08 16:48 | お出かけ
2012年 07月 04日

岐阜市

ロープウェー乗り場の近くの池
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岐阜公園総合案内所の近くの若き日の信長像
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長良川にかかる長良橋と鵜飼観覧船
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川原町
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長良橋南の鵜飼観覧船事務所から西に続く街並。湊町・玉井町・元浜町は通称「川原町」といい、ノスタルジックな街並みです。懐かしい丸形のポストも現役です。

岐阜城天守閣に登ってみて、池田輝政と福島正則が先陣を争ったという岐阜城攻略戦がいくらか理解できたようです。
17時21分岐阜駅発、21時前に帰宅しました。少しハードでしたが、交通費も安く充実した一日でした。
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# by seico5822 | 2012-07-04 18:39 | お出かけ
2012年 07月 03日

岐阜城(2)

天下第一の門からだんだん登りはきつくなり、上格子門にきました。ここにはこの説明文がありました。
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それからもう少し上ったところに二の丸門がありました。
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この二の丸門で激戦が繰り広げられ、このとき門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発し、夜空を焦がした火炎が美濃、尾張国内に岐阜城の落城を知らせたとの説明がありました。
このあたり二の丸跡から天守閣が美しい姿を見せています。
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天守閣への出入り口の前にお城時計がありました。
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天守閣からの展望
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   鵜飼で有名な長良川が市内を貫通しています。
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 お天気のいい日には、東に恵那山、木曽御岳山、北には乗鞍、日本アルプスがつらなり、西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり、南には濃美平野が開け、木曽川が悠然と伊勢湾に注いでいるさまを一望できますが、この日のお天気はいまいちでした。
金華山岐阜城散策を終え、ロープウェーで下山しました。
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# by seico5822 | 2012-07-03 22:38 | お出かけ
2012年 07月 02日

岐阜(1)

私の住むマンションのロビーの書棚に山岡庄八の「徳川家康」が文庫本で全巻そろっていました。家康は食わず嫌いで、1983年のNHKの大河ドラマ「徳川家康」も一度も見たことはなかったのですが、時間はタップリあるので暇に任せて読んでみようと、読み始めました。関ヶ原合戦のあたりまで読み進んできたとき、その現場を訪れたほうが理解しやすいのではないかと思いました。家康の出生地岡崎には親戚もあり、前の年に訪れていましたので、まず関ヶ原合戦の前哨戦となった岐阜城に行くことにしました。
2011年3月24日、青春キップを買い、6時半ごろ家を出てライナー、JRと乗り継いで、岐阜に10時過ぎに着。バスで岐阜城に向かいました。
岐阜市歴史博物館前で下車、まず岐阜の予備知識を得るため、岐阜市歴史博物館に入館しました。
昼食後、岐阜公園内の織田信長居館跡へいきました。
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冠木門をくぐり奥に進めば巨石を使った通路、石垣、土塁状の遺構、礎石などがあり、今も信長の偉業を解明すべく発掘作業が進められています。
そのそばのロープウェー乗り場からロープウェーに乗り、金華山頂の岐阜城にむかいました。
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山頂駅から天守閣に向かう途中、ところどころに岐阜城についての説明文があります。
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岐阜城はかって稲葉山城と称していました。金華山上にはじめて砦を築いたのは鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には斉藤道三の居城でもありました。1567年8月、織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「岐阜」と改称し、天下統一の拠点にしました。
しかし慶長5年(1600年)8月、関ヶ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。
ロープウェー山上駅からすぐのところの
天下第一の門
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# by seico5822 | 2012-07-02 16:10 | お出かけ
2012年 06月 30日

富嶽十六景 (4)

本栖湖から朝霧高原にむかいました。12時30分着
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この道の駅でお弁当を購入し、バスの中で食べることにして、すぐ近くの丘に登りました。
すばらしい富士山のビューポイントです。桜の季節には、すごい人出になることでしょう。
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ここからバスで20分の田貫湖に行きました。
田貫湖…人造湖
元々このあたりは狸沼あるいは田貫沼と呼ばれていた沼地でした。1923年の関東大震災の影響で、周辺に水を供給していた芝川の水量が減少したことから農業用水を確保するため、1935年から狸沼に堤防を建設し始め、沼を人工的に拡大した人造湖です。その後も堤防の拡大工事を行い、東西1km、南北0.5kmの大きさで、平均水深8mもあります。湖の周辺は自然と触れ合える場所として整備されています。
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ここから最後の観光スポットの白糸の滝、音止めの滝に行きました。
白糸の滝の碑
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白糸の滝に行く途中に轟音をとどろかせる水音が聞こえ足をとめると、音止めの滝の展望スペースがあり、目の前の高さ25mの絶壁から轟音をとどろかせて落下する滝に虹がかかっていました。
この滝の名の由来は曽我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ相談をしているとき滝の音で声がさえぎられたため、神に念じたところ、一瞬滝の音が止んだという伝説からきています。この近くに曽我隠れ岩や工藤祐経の墓があるようです。
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これより少し先の長い階段を下りると、白糸の滝がありました。岸壁の間から白い絹糸のように流れ落ちるさまは、音止めの滝とは対照的に女性的でやさしい景観を見せています。
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これで富士十六景の2日間の観光がおわりました。疲れたけれども、じっくりと富士山を眺めたいという長年の願望がかなった充実した素晴らしい旅でした。
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# by seico5822 | 2012-06-30 17:53 | 旅行
2012年 06月 28日

富嶽十六景(2)

1月25日
ホテルの中庭から朝陽に赤く染まる富士山が観察できるということで、日の出時刻の6時50分に中庭に出ました。すでに大勢の人が富士山を写していました。
6時50分の富士山
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7時
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7時10分
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8時にホテルを出発、忍野八海に向かいました。 
8時20分 忍野八海着
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池に逆富士山が…
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9時30分 忍野八海発
10時ころ 河口湖オルゴールの森着
エントランスホールでは世界最大規模の豪華な自動ダンスオルガンが奏でる音楽にのって自動人形が
動きます。
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10時15分 レストランで窓越しに富士山を眺めながらコーヒとケーキをいただきました。
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教会の左奥に河口湖が青くかがやいています。
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富士山を望む、緑深い湖畔の中世の貴族の館。童話の国に迷い込んだようでした。
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# by seico5822 | 2012-06-28 15:34 | 旅行
2012年 06月 26日

城北菖蒲園 (2)

しばらく休んだ後、休息所を後にする
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菖蒲園の中央にある四阿(あずまや)
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近くに国宝殿という花が咲いていた
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出口近くの展示棟のお花
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展示棟を後にして、出る前にもう一度菖蒲園全体を見渡す
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大池を一巡りして、城北公園に別れを告げた
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# by seico5822 | 2012-06-26 20:43 | お出かけ
2012年 06月 25日

城北菖蒲園

今朝、城北菖蒲園のパンフレットをもらった。
今日は、雨の心配はないようだし、予定もないので、思い切ってこれから菖蒲園に行くことにした。
10時40分ころ、家を出て大阪に向かった。JR大阪駅から守口車庫前行きバスに乗り、菖蒲園に
着いたのは12時過ぎだった。
城北公園入り口に花菖蒲が彫刻されていた
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入ったところのトイレの壁にも花菖蒲の絵が描かれていた
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公園の中の大池
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大池の北に菖蒲園があった。 入り口に「菖蒲は見ごろを過ぎています」と書かれていた
入り口から
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たしかに見ごろは過ぎていたが、「青柳」「潮来の夢」「猿踊」など一輪一輪は見事だった
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奥の休息所で一休み
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# by seico5822 | 2012-06-25 21:20 | お出かけ