11月25日(水)京都紅葉めぐりのバスツアーに参加した。
8時30分梅田を出発、9時30分長岡京の光明寺に到着した。
光明寺
  光明寺の開山第一世は法然上人だが、建久9年(1198)の創建に力を尽くしたのは、平敦盛の
  首を打ち無常観を法然上人によって癒された熊谷次郎直実です。
  西山のふもとに広がる光明寺は、秋になると鮮やかな紅に染まる。
御影堂への表参道脇の紅葉
 

 

御影堂
 

信楽庭と勅使門
 

外から見る勅使門
 

もみじ参道
 
 

次いで同じ長岡京市の新西国霊場第17番札所の楊谷寺を訪れた。バスは下ってくる車があると、
お互いに譲り合わなければいけないような細い山道を登っていく。縁日でもなければ、車をもたない
私には訪れにくいお寺だ。

楊谷寺
  大同元年(806年)京都東山清水寺開創の延鎮僧都よって開山された。

独鈷水(おこうずい)  弘法大師法力による霊水

奥の院へ通じる坂道

坂道より

# by seico5822 | 2010-11-26 11:53 | 寺社

正午ごろ車窓から東寺を見て、東山で湯豆腐湯葉会席の昼食をいただく。
智積院の紅葉もとても美しい。
2時過ぎ常照寺の駐車場に到着。
常照寺
江戸初期の太夫で諸芸に秀でた吉野太夫ゆかりの寺。
吉野太夫寄進の山門(赤門)

本堂

吉野太夫の墓

庭園の紅葉

帯塚 女性の心の象徴『帯』に感謝し祈りを捧げる全国初の帯塚。昭和44年5月建立。

源光庵
本堂は元禄7年(1694)の創建

  本堂の天井は鳥居元忠一党が自刃した伏見城の床板をうつした血天井。
悟りの窓
 
  円は禪の心と大宇宙を象徴する 
迷いの窓

  四角は人間の生涯を象徴し、生老病死四苦八苦を表す
枯山水の庭園

参道にて


光悦寺

  陶芸や書道、茶道などに多才を発揮した本阿弥光悦は徳川家康からこの地を拝領し、
  一族や多くの工芸職人とともに芸術村を営んだ。光悦没後、寺として日蓮宗光悦寺と
  なった。鷹峰三山を望む境内には7つの茶室が点在している。
三巴亭茶席

大虚庵茶席と光悦垣

紅葉の光悦垣

了寂軒茶席

鷹峰三山(鷹ケ峰、鷲ケ峰、天ケ峰)

本阿弥庵茶席

光悦の墓碑

ライトアップの永觀堂
     17時半前永觀堂のライトアップを見るため、バスで永觀堂へいく。すごい行列だ。
     団体は個人とは別の行列だ。
     永觀堂は数回訪れたことがあるが、夜の永觀堂は始めてである。ライトアップされた
     永觀堂や紅葉を撮りたいと思ったが、私のカメラや力ではむりだった。




# by seico5822 | 2010-11-25 10:28 | お出かけ

正倉院展を鑑賞したあと、奈良在住の友人に会い、国立博物館横のテントで柿の葉寿司とおでんを
食べた。そこに鹿が侵入、食べ物を求めて、テーブルの間を歩き回り、テーブル上に置いていたおで
んを食べた後のトレーの残り汁をなめ始めた。奈良の鹿は食べ物をもらうとお辞儀をするとテレビで
放映していたが、この鹿はテーブルの上の紙袋をとったり、残り物をあさったり、厚かましさはこの上
もない。

食後、友人の案内で志賀直哉旧居に向かう。途中奈良公園で、空洞になった幹の中から5本の竹が
顔を出している「むくろじ」の樹を見つけた。竹の生命力には驚いた。

旧奈良県物産陳列所

  明治35年竣工。京都宇治平等院の鳳凰堂の形をしている。
飛火野から志賀直哉散歩道をたどる。

# by seico5822 | 2010-11-14 21:57 | お出かけ

静寂そのものの森の小道を通り抜けるとまもなく志賀直哉旧居の門が見えた。

志賀直哉は奈良の古い文化財や自然に対するあこがれ、またすでに奈良の高畑に住んで
いた友人たちの薦めにより、昭和3年、自ら設計し、京都の大工に依頼して、高畑大道に造った
邸宅に翌4年移住した。
数寄屋造りを基調にしながら、広い洋風のサンルームと娯楽室(見取り図では食堂)を造り、
ここが彼と前後して高畑に移り住んできた画家や作家など文化人のサロンのようになり、文化
活動の核になった。こうして当時奈良の水門町に住んでいた武者小路実篤らとともに白樺派
文化の中心を奈良高畑に開花させた。同時に奈良、京都を中心とした有名な古文化財を見て
回った。ここで彼は、尾道時代から手がけていた大作『暗夜行路』を完成させた。
しかし、奈良の古い文化や自然の中に埋没して時代遅れになろうとしている自分を見、また子供の
教育を考え、昭和13年東京に居を移した。
この邸宅は、その後人手に渡り、進駐軍に接収されるなど変遷を経たが、今回学校法人奈良学園
セミナーハウスとして、建築細部まで旧に復して公開された。
見取り図(クリックすると大きくなります)
二階客間

北には春日の杜を透して飛火野が展開し若草山の山焼きも見える。鴨居の横木一つにも
直哉のこだわりが見られる。

『暗夜行路』が完成した書斎

廊下の窓

階下の茶室

天井にもこだわりが見られる。
サンルーム

食堂(娯楽室)

床の間のような感じにソファーを設え、子供が熱を出したりすると、このソファーに寝かせて子供を
看病したこともあったそうである。この部屋の長押は赤松。
直哉の居間からみた子供たちの勉強部屋

直哉の居間は、西は子供たちの寝室に隣接し、居間の下の窓から南に隣接した子供たちの勉強
部屋を見ることができる。子供たちの勉強部屋の床はコルクにするなど心配りをしている。
直哉の居間からみた西の子供たちの寝室

庭には子供たちのための小さなプールが作られていた。

その他、浴室にはシャワーが取り付けられ、台所には大きな冷蔵庫が備え付けられるなど
いたるところに直哉のこだわりがみられる。また、婦人の部屋をサンルームに隣接させたり、
子供たちの部屋を自分の部屋に隣接させるなど、直哉の家族に対する愛情にあふれた邸宅を
訪ねて、大作家志賀直哉が身近に感じられるようになった。

# by seico5822 | 2010-11-13 10:45 | お出かけ

10月20日(水)味わいのある京の一日を楽しみました。
まず、老舗竹屋町魚常でまったけ弁当を賞味しました。

食後、御所の九条家の庭園で目の保養をし、御苑を散策しました。


その後東山三条の並河靖之七宝記念館を訪れました。

パンフレット


 『建物は表屋・主屋・旧工房・旧窯場が国登録有形文化財および、京都市指定歴史的意匠
 建造物に、庭園は京都市指定名勝に、それぞれ指定されています。当時の面影漂う環境の
 中で、国登録有形文化財となった七宝作品、下絵、製作道具類に加え、並河家に伝わる靖之
 ゆかりの品など』(パンフレット抜粋)を鑑賞、並河七宝の素晴らしさに魅了されました。
 庭園は七代目小川治兵衛の作庭で琵琶湖疎水を取り入れています。
疎水取り入れ口


その後、夕暮れの先斗町を散策しました。

# by seico5822 | 2010-10-23 10:11 | 京都

10月17日(土)『京都ギリシャローマ美術館』での講演会に参加するため京都地下鉄北山駅で下車、
2時の開始にはだいぶ時間があったので、近くの京都府立植物園に立ち寄りました。北山門から入り
噴水のまわりを1時間あまり散策しました。

近くの京都コンサートホール

閑静な住宅街にあるとても雰囲気のある美術館、京都ギリシャローマ美術館は、古代ギリシャローマ
時代の素晴らしいコレクションです。パンフレットから

# by seico5822 | 2010-10-22 11:58 | 京都

5月4日『エジプト・ギリシャ・トルコ3ヵ国大周遊15日』のツアーに参加するため関西空港に向かいました。
旅行の行程

エジプト航空0963便で19:45集合、21時45分出発です。
関空には19時15分到着、集合場所には添乗員のKさんが出迎えてくださいました。 とても感じの
よい方で、若く見えましたが、お話の様子では、ベテランのようでホットしました。
ツアー客は18名。退職なさったばかりの60歳前後のご夫妻が多いようです。説明を受け各自出発ゲートに向かいました。
予定通り、21時45分に離陸しましたが、都合で座席を変わることになり、新しい座席に着いて、帽子がないことに気づきました。どうも関空に忘れてきたようです。帽子、サングラスは忘れないようにと注意されていたのに大失敗です。晴雨兼用の傘を持っていたのが救いです。
例によって、機中では眠られず、新聞を読んだり、お隣の人とおしゃべりをしたりして、長い時間を過ごし、やっと予定より少し早く5日午前5時半ころ(現地時間―日本との時差ー6時間)ルクソールに到着。外は40度を越える暑さだそうです。座席で1時間あまりを過ごし、午前6時50分ルクソールを離陸、カイロに向かいました。カイロ着8時、11時30分カイロ発、アテネに向かう予定でしたが、ここで大変なニュースが入ってきました。アテネに騒動が起こり、アテネに向かう飛行機はストップ!! 私たちはカイロどまりになったのです。旅行会社や添乗員の尽力で、Fairmont Towers Hellopolisに落ち着くことになりました。
モダンなホテルで、さっそく帽子などを売っている店を探しましたが、見つかず、ガッカリ!!

化粧室もとても気が利いています。

# by seico5822 | 2010-05-20 23:27 | エジプト・ギリシャ・トルコ

今日はアテネ観光のはずが、アテネにいけなくなったので、カイロのホテルで昼食後、急遽本来はオプショナルツアーだったメンフィス・サッカラ・ダハシュール観光をすることになった。
車窓観光をしながら、南へと走り、3時頃ダハシュールに到着。砂漠の中にいくつかのピラミッド群を見たとき感動した。赤のピラミッドはスネフル王(BC2600年頃:クス王の父)の2番目のピラミッドで、赤みをおびた石灰岩で築かれ、断面が二等辺三角形の真正ピラミッドとしては最古のものだ。

南のピラミッドは屈折ピラミッドと呼ばれ、彼の3番目のピラミッドである。

高さ105mの真ん中あたりで角度が変わり、上部は43度、下部は52度と傾斜が緩くなっているので、屈折ピラミッドと呼ばれているのだが、その理由には諸説がある。
ここからヤシの林の茂る農村地帯を北にたどる。

小さな集落の中に、メンフィス博物館があった。
1階に、足の一部が欠けた身長15mもあるラメセス2世(BC1275年頃 シリアのカデシュでヒッタイトと戦った王)の巨像が横たわっていた。

建物の前の広場には1912年に発見されたアラバスタ製のスフィンクスがある。

広場にはいくつかの像があったが、左足を1歩前に出した像は生きている姿をあらわしたものだそうだ。

閉館時間の4時になり、機関銃をもった警備のひとに急かされ、博物館を後にした。
サッカーラの世界最古のピラミッド、ジュセル王(BC2650年頃)の階段ピラミッドにむかった。
走ること30分、広大な砂漠台地に階段ピラミッドがあった。王の命を受けた大臣イムホテブは、当時主流とされていた台状の墳墓(マスタバ墳)を積み上げて階段状にした。(6段60m)東西277m南北545mの周壁に囲まれ 階段ピラミッドを中心にセド祭殿、葬祭殿その他の付属建造物があり、ピラミッドコンプレックスの形が残っている。周壁に1ヵ所ある入り口から入り、2列に20本の柱が並ぶ柱廊を抜けると、中庭になる。


中庭の北に階段ピラミッドがある。

中庭の東側のこの3つの柱の後ろが王の小館でこの裏側がセド祭の中庭である。セド祭の中庭の北に南の家があり、この裏(北側)に北の家がある。
階段ピラミッドの北側には葬祭殿やセルダブがあるが現在は非公開である。
サカーラは周辺に観光客向けに実演をしてみせるカーペットスクールが点々と並ぶ。その一つに立ち寄った。絹とか羊毛といった素材や模様により、少年少女から経験豊かな技術者までいろいろ実演していた。

帰途車窓から逆光のなか、堂々としたシダデル(十字軍を打ち破った中世アラブ世界の英雄・サラディンが、1176年対十字軍の拠点として建設した城砦。彼の死後も建設が進められ、19世紀のムハンマド・アリの時代まで支配の中枢として機能した)。

翌朝9時過ぎの出発まで、ゆっくりとホテルの庭園を散策する。

# by seico5822 | 2010-05-20 22:56 | エジプト・ギリシャ・トルコ

5月5日欧州連合(EU)や国際通貨基金(IMF)の総額1100億ユーロ(約13兆5千億円)融資と
引き換えに政府が決めた緊急策に抗議する24時間のゼネストが行われた。空港の管制官も
24時間ストをしたのですべてのフライトがキャンセルされ、私たちもカイロ泊まりとなったわけだ。
首都アテネ中心部のデモでは、一部が激化し暴徒の投げた火炎瓶が銀行の入った建物に引火、炎上し3人が死亡、約20人が負傷した。デモには計約10万人が参加し、一部は激化し、建物や自動車などに放火したそうである。
5月6日私たちは昨日(5日)と同じ便でアテネに飛んだ。

アテネ空港から市内に向かう

アテネの中心部を車窓観光する
国会議事堂

昨日は国会議事堂前でデモ隊と警察隊が衝突したそうだが、きょうは平穏であった。ただしその名残か、中心部には警官隊のバスが止まり、機関銃をもった多くの警官が警備し、路上には黒こげの車が放置されていた。
また裏通りではゴミの山が収集されず、残っていた。
凝った造りのアカデミー、アテネ大学、国立図書館とつづいている

国立歴史博物館

パルテノン神殿遠望

この後アクロポリスを訪れる。

# by seico5822 | 2010-05-20 22:49 | エジプト・ギリシャ・トルコ

アクロポリスの遺跡を巡るうち、アテネの歴史の古さにいまさらながら感動し、古代ギリシャの歴史をまとめてみた。
人類がギリシャの地に住み着いたのは約10万年前。テッサリアやマケドニアに新石器文化の住居跡がある。紀元前2000年頃、ギリシャ人の先祖とされるアカイア人やイオニア人がギリシャ本土に移住する。同じ頃ミノス王が支配するクレタ島を中心にクレタ(ミノア)文明が発展した(クノッソス宮殿)。
 紀元前15世紀にクレタ文明が衰退すると、アカイア人たちのミケーネ文明が台頭、紀元前13世紀頃まで発展は続く。ミケーネの王、アガメンノンを総大将としたギリシャ軍が、紀元前1260年頃トロイアを攻めたトロイア戦争は有名である。ギリシャ軍の勝利におわるが、その直後ギリシャは荒廃し、ギリシャ北西部からのドリア人の侵入によりミケーネ文明は滅び、紀元前900年頃まで暗黒時代がつづく。それから都市国家(ポリス)が各地で形成される(コリントス、アテネ、テーベ、アルゴス、スパルタなど)。この時代はアルカイック期と呼ばれ、この時代の文化にはアルカイック美術があり、建築としてはアテネのゼウス神殿、ディオニソス劇場がある。紀元前5世紀はじめまでギリシャの都市国家は、ポリス政治と文化が発展した。
 ところが東ではペルシャ帝国が強大になり、紀元前550年頃、小アジア東岸にあったギリシャ都市を征服。そのとき援軍を送ったアテネに向け、ペルシャ王は大軍を送った。これがペルシャ戦争の始まりである。前490年ペルシャの大軍がマラトン湾に上陸。アテネ軍たちはこれに勝利した(マラトンの戦い)。ペルシャ戦争では、圧倒的に有利なペルシャ軍に対し、各ポリスが一体となって戦い、ポリス連合軍の勝利となった(サラミスの海戦)。戦後しばらくポリス間に平和が訪れ、アテネ中心に文化、芸術方面に多くの優秀な人物が登場した。(ペリクレス将軍、アイスキュロス、ツキジデス、ヘロドトス等)対ペルシャ戦での勝利によってアテネは自他ともに認める最有力ポリスになった。これに匹敵する有力ポリスがスパルタである。ついに前431年、戦いの火蓋が切り落とされ、ギリシャ全土のポリスを巻き込み27年も続いた(ペロポネソス戦争)。前404年アテネの降伏によって終わりを告げた。長期に及んだ戦いは国全体を疲弊させた。
 この後北ギリシャのマケドニアのフィリポス2世が対ペルシャ線の総指揮官になろうとしたが、前336年暗殺され,その子アレクサンドロス(アレキサンダー3世が王位と父の遺志を継いだ。

# by seico5822 | 2010-05-20 22:15 | エジプト・ギリシャ・トルコ

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